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1961年『繁殖絵画論』-小野田實(日本語版)
 最も最近、私の試みている実験的な作品の数点によって得られたイメージを更に拡大していきながら、これに理論的な背景を与えて見たいと思う。
 一九五六年の暮「世界・今日の美術展」によって、日本にアンフォルメルが紹介されたのだったがそれ以来アンフォルメル、あるいは、アクション・ペインティング一辺倒の風潮が、今日の美術界を支配している。これが安易に日本人の体質と結びつきフォーブ的な様相を呈しているのである。
 欧米で起ったアンフォルメルの運動もここに至っては、当初の否定も反逆も無くなり、公認された安全な方法として受け継がれているだけである。行動といった異質の要素を絵画にとり入れ、イメージの革新を企てようとしたアクション・ペインティング本来の目的もたんなる生理的エネルギーの発散でしかないような絵画の氾濫、タピエスの作品が紹介されるや壁のような絵がやたらとふえ、精神の厚みであると感違いしたような絵画群、いずれも昔流行した高等ルンペン的な暗い表情と重々しいマチエル、情感のぬくもりと陰湿なムードは日本の風土に根ざした特性だろうか。
 最近私が試みた作品の数点は、これらの風潮に対するシニカルな批判でもあり、冷笑でもあった訳だが、それ以前の私の発想のなかで無数の同一の何か(それは物体でも記号でもよい)が、メカニックに増殖していくというイメージにとり憑かれていたのだった。
 最も興味深いのは、オートメーション工場において作り出されていく製品の無数の同一である。仮に毎日無数に製造されていく真空管を例にとるとする。これをラジオ、テレビ等に組込まれることから切り離し、唯たんに真空管の無数の累積だけを見た場合、その膨大な無意味に驚異を発見出来ないだろうか。
 かつてシュールレアリズムが、テペズマン(異質な物体又はイメージを衝突さす)によって驚異を導き出したが、私は無数の同一にある秩序を与えることにより新しいイメージを獲得しようとしたのだった。
このイメージを客体化するために選んだのが無数の円形と線であった。以来それを「私のマル」と称し、遠近法的秩序による線の軌道によってマルの大きさは変化した。画面はどっちから見ようと差し支えないし「私のマル」は画面のどこからでも外へ延長することが出来、壁や天井は勿論のこと道路であろうと自動車であろうとおかまいなく描くことが出来るし、どこにでもマルを描き続ければ私の作品になるのである。そんなところから繁殖絵画と名付けたのではあるが、繁殖といった有機的なものではなく、からっけつで、あっけらかんとした、メカニックなイメージなのである。
 この世界に「否」をたたきつけるためにも、機械を喰う貪欲さを持って「無意味」に耐えることが必要である。ポカンと空を眺めながら「私のマル」が、この空を、地球を、残る隙なく覆い尽くすことを夢想する。

(「姫路美術」創刊号 1961年12月より)

work1961作品61-11

作品61-11   1961年制作
【2007/03/06 00:27】 | 作品解説-Description | page top↑
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