「北條の五百羅漢・その1」写真・文 小野田實
三彩1表紙

1963年  三彩 5月号 三彩社 

「五百羅漢」 写真・文 小野田實

北条、五百羅漢との最初の出会いからもうすでに五、六年にもなるが、かつてプリミティヴィスムに造形的な関心をいだいていたので、創作上の要求からこの五百羅漢を発見し、訪れたのだが、真夏の焼けつく太陽の下で雑草が生え茂り、むんむんする草いきれのなかに、鋭いノミ跡に厳しい影を落して、一体ずつ立ちつくす石仏の群に初めて出会った時の感激は今も忘れない。
 まさに、太陽と石とが生み出す原始のエネルギーを、肌にじかに感じたからだった。
 最近、写真家などの手によって、新聞、雑誌に多く紹介されるようになり、遠くからもここを訪れる人が急速に増えて来たが、当時、ここを訪れる人もほとんどなく、石仏と私との対話は、誰にも邪魔されることがなかったことを思えばなつかしい。
 北条は、姫路から北へバスで、約1時間のところにある鄙びた町であるが、かっては、山間の都として、三重の北条と謳われ、酒見の里と称せられ、栄華を極めた古い町である。
 五百羅漢は、この町はずれ、中学校の隣、正確には、兵庫県加西郡北条町北条一二九三番地にあるが、これらの石仏も雑草の生え茂るままに放擲されていたものを、大正十五年の八月有志の手で修復し、現在の場所にまとめたのである。
 五百羅漢については、何の文献も資料もなく、由来は明らかではないが、幕末頃の著書、田安記に「五百羅漢、寺内村の竹林の中に兀然として並立す。古風云わん方なし、製作の年暦詳かならざれども、入口の石仏は後世の物にて、慶長十五年戍●三月二六日高瀬清右衛門再興とあり。傍に小庵あり。この本尊弥陀観音地蔵の三体に行基菩薩の作と云えり。此の庵当時無住につき三尊は高瀬督五郎へ引き取り祭祀す。諸事同人の支配なり。二十五菩薩の石像は文政年中諸人の再興にかかれり。」と記されているのが文献と云えるが、それ以外は全く手がかりをつかむことは出来ないし、考古学、美術史家の専門的な研究を仰ぐ以外に方法はないようである。
 以下、郷土研究家、三重山人氏の推察した研究文によるものから、製作年代及び作者について触れてゆきたいと思う。
 羅漢入口の石仏に慶長十五年(三百五二年前)再興の文字があることから、慶長十五年に荒廃していたのを再興したものであり、建立はそれ以前、すなわち余程古く建立されたものが、室町末期の戦乱(北条は戦国時代、焼野原であった)で荒廃していたと考えられる。そして羅漢に隣接している酒見社(住吉神社)と、酒見寺とは不可分の関係があるので、酒見寺と酒見社の興隆寺に造立されたと考えるのも不自然ではない。
 酒見寺は、吉野朝期までは相当栄えた寺で、その時期に国主が、田を四十町歩寄進したり、千女という女が、貞治三年(五百九八年前)鐘を作って寄進したり、赤松氏が講堂を建てたりしているので、石仏を寄進したことも考えられぬことではない。
 酒見寺の記録にも、南北朝以降は、打続く戦乱のため勅使参向が絶えたとあり、高瀬家の文書にも、羅漢を再興した清衛門家族の親、清衛門忠礼の代に「重代の器物、系図之巻、天正年中の兵火に灰燼に帰したと考えられる。したがって羅漢荒廃の時期は、おそらく天正を中心とした室町末期の戦乱期と考えて大差ないと思われる。
 以上のことから考えて、羅漢の製作時期は、酒見寺の最盛期、鎌倉末期から室町初期という推定が出来そうである。
 次に羅漢の作者だが、これには色々の説があるが、石仏の技法から見て石材に全く親しみのない素人の作とも考えられず、また純然とした仏師の作でないことももちろんである。用石が当地の産物(高室石)であるところから、高室辺の石材を扱った者の手によったものとも考えられ、作者も一人ではなく、数人の手によって作られたと考えられる。しかし、右の作人を羅漢の建立者、寄進人と考えることは、当時の一般庶民の生活状況から考えて困難であり、当時の支配者、土豪の建立と考える方が自然であるようだ。
 また、石仏の顔貌がアリアン民族に似ているところから、石仏の作者を漂流人、帰化人とする説が多い。しかし漂流外人が当地に来たという伝説も記録もないし、瀬戸内海の山深い地に、日本人に害されることもなく奥地に集り、しかもなお多くの石像を建立する程財力があったかも疑問である。
 いずれにしても、史実として伝えるものほとんど皆無なので推察にしかとどめられないが、今後の研究の手がかりにでもなれば幸いである。 
 歴史的な背景はともかくとして、なだらかな丘陵や、特徴のない低い山々に囲まれた、山陽地方の平凡穏和な風土のなかで、国でも珍らしいこのような特異な彫像が作られたこと自体に、私は不思議さと、いっそう謎めいた神秘を感ずるのである。
 あるものは、円空の彫刻に、あるものは、植輪に、またインドの彫刻に、ギリシャ彫刻に似た形態を発見するが、様式的にも技法的にも他に例を見ない全く独自な石仏なのである。
 直線的に鋭く彫られた顔面の特異さと表情の拙な豊かさ、荒けずりの胴体の上に、浮彫りに、あるいは線彫りにされた手の繊細な表現に、単純で素朴な力強さと抽象的な美しさを感じ、同時に石仏の作者の屈託のない笑いをも感じる。
 何度もこの羅漢を訪れながら、現在、私の関心は石仏との距離にあり、この距離の内容を分折することの方に私の造形思考を展開する手がかりを見出している。
 時には、その距離は同次元的な身近いものになったり、とりかえしのつかない程遠い地点に来ていたりするが、原始と現代とは接触し反撥し、互に矛盾をはらみつつ現代の造形意識を刺激し、方向を与えるものと思う。
 その意味で、私自身の変化の過程を確認し、方向を決定する事でも、これらの石仏との対話は決して無意味ではないし、たえず新鮮な問題を提供することであろう。                                      
(画家)
   
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【2007/03/06 20:58】 | 主要参考文献 | page top↑
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